「幼稚園児が名前を呼ばれても無反応」って、それどういうこと? 〝自分を最優先している親の姿〟を子は真似る【西岡正樹】
子どもはいま「迷い子」状態 〜個を最優先させる社会と公教育の矛盾〜
■子どもたちは今、家庭と学校環境における大きな矛盾の狭間にいる
昨日の夜もそうだった。ファミリーレストランで、いくつものテーブルを重ね、大人数の家族が団らんしていた。その中で2、3歳の姉妹が瞬きもせずにタブレットを覗き込んでいる姿が見えた。そこにいる大人たちと子どもたちの関係は完全に遮断され、子どもたちだけの全くの異空間が、その小さな世界の中に存在しているのだ。その様子を見ていると、鎌倉で幼稚園教師をしていた教え子の言葉が、生き生きと蘇ってくる。
「大人たちがそれぞれの個を最優先する行動を子どもたちに見せていると、『他者との関係性を切った個を優先する行動』が、子どもたちの中に積み重なっていくんだろうな」そんなことを思いながら、その家族の様子を見ていたのだが、ふと、目の前の現実が、公教育、つまり公立小学校が目指していることと著しくかけ離れていることに気が付いた。
今、公教育(公立小学校)が目指しているのは、「対話的・主体的な深い学び」である。端的に言うならば、「協働して何事にも取り組み、個と個の考えを交流させながら個の学びを深めていきましょう」ということなのだが、このような考えが、他者との関係を断ち切り、個を優先する日本社会の中に、果たして浸透していくのだろうか。家庭と学校がこのように乖離していれば、迷うのは子どもである。家庭と学校がお互いを理解していれば、それぞれの足りないところを補完し合うことができるが、家庭と学校がこのように乖離していれば、それは無理というもの。このような状況が続けば、きっと学校、とりわけ、小学校が取り組んでいることは理解されず、その存在感は薄れていくに違いない。
子どもは環境さえ整えば自力で学びを深めていく力を持っている。それに1つ付け加えるならば、大人は子どもにとって一番影響力を持った環境の一部なのだ。しかし、今のような環境(家庭と学校でやっていることが違う)では、子どもはどちらに進んで行けばいいのか分からない。それは「迷い子」状態と言って良い(子どもは自覚していないが)。
我々大人がやるべきことは明確である。子どもたちが自分の持っている力を発揮できる環境をつくるために、まずは、大人があらゆる他者を蔑ろにせず、繋がることを意識すればいいのだ。
文:西岡正樹